先代が金属団地へ進出

 先代の会長下村和之は、機械部品加工を専門に取り扱う会社として現在のダイニチの前身「大日鉄工所」を創業し、戦後の高度成長期と共に事業も拡大し、昭和38年に岐阜県が始めて創設した岐阜県金属工業団地協同組合(金属団地)が岐阜県各務原市に完成し、同社は早速その先頭を切って、金属団地に進出しました。
上の写真は、昭和40年に平成天皇が皇太子の頃、岐阜県が岐阜国体を開催の折、金属団地を訪問されたときの写真で、先導を努めているのが先代の会長下村和之です。
先代の会長下村和之は、特に業界の発展に寄与され、その功績は大変大きなものでした。


三菱電機大船研究所に出向

 一方、下村尚之会長は、当時、岩手大学を卒業後は千葉県船橋市にある三菱電機大船研究所に関係する日本建鐵という会社に就職し、洗濯機の塗装を専門に研究するセクションに在籍し、如何に洗濯機を『売れるように塗装するか?』の研究をしていたサラリーマンでした。


岐阜に帰る

 こうして、社会人として立派に技術研究をしている最中に、突如として不幸が下村家を襲いました。母親幸子さんがこの世を去るという事実でした。下村家は深い悲しみに包まれました。

 しかし、ここで悲しんでばかりいられないと下村会長はこれを機に一大決心をしました。それは、帰郷し先代の後を継ぐ路を選択することでした。この時下村会長は41歳でした。


親をみれば、けんか

 帰郷した下村会長は、創業者の父親から事業を引き継ぎ一所懸命働きましたが、父親とは、よく口喧嘩をしていました。それは、父親が会社の仕事をほっといて業界の仕事(社会奉仕活動)ばかりしていたためで、そのことに腹が立っていた下村会長は、逆に何か他の仕事を見つけようと考え、この当時いろいろな資格取得に挑戦しました。

 その結果、下村会長は宅地建物取引主任者、2級建築士、水質関係第2種公害防止管理者、危険物取扱者甲種資格等々、国家資格をこのころ次々と取得しました。

 親との反発で、何かやらねばという下村会長のチャレンジ精神が培われました。


受注形態の不安定さを克服

 経営を任された下村会長が最初に考えたのは、事業の受注形態の不安定さを克服することでした。

 それまで専用機の製造を中心に事業をしていたので、受注時期にばらつきがあることや、作り始めてから完成納品まで、資金回収に時間がかかり過ぎることなど、経営に安定性が欠けていました。

 そのために新分野への模索が始まりました。
※上記写真は、当時使用していたオークマ製のマシニングセンターで、この頃は、機械工作機部品を作るのにプログラミングをしながら深夜3時頃まで働いていたという。